昭和四十三年一月十七日 夜の御理解


 今朝から、岡崎さんの事を例にして、絶対自力の絶対他力とゆう御理解を頂いておった。大変な反響があった。そして今日は、この事を思い続けさせて頂いておったら、絶対自力でもなからなければ、絶対他力でもないとゆう事を頂く。今朝からの御理解も本当なんだけれども、もっと、その奥には、本当の本当の事があるとゆう事。金光教の信心は、絶対自力でもなからなければ、絶対他力でもない。そこにお道の信心の独壇場がある。所謂鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか。鐘と撞木のあいが鳴とゆうのが、お道の信心。鐘が鳴りおるのじゃない、撞木が鳴るのじゃあない、鐘を撞木のあいの中から、あのゴーンとゆう、余韻のある、なんとも言えない音がでるようにです、神様のおかげだけではどうにも出来ないのである。人間の力だけでは、どうにも出来なんのである。
 そこで繁雄さんが話されるように、神様の、あなたのおかげで、この様な立派なお野菜が出来るようになりましたと、こう言うのである。そしたら神様は、なんのその、お前達が草も取ったけん、肥料も施したけんこそ、こげん見事なのが出来たとたい。いいえ、あなたのおかげで、あなたのおかげでと言うとるうちに、良いものが生れてくるとゆうのが金光様の信心。あいよかけよで立ち行くとか、親にかかり子にかかりとゆう中から生れてくるのが金光教の信心なのです。
 今日豊美が、先日から繁雄さんが言うておった事を思い出して、本当に繁雄さんは、素晴らしい事を言わっしゃったわとゆうて話すんです。朝の御祈念が、もう本当にすがすがしく有難い。夜の御祈念はいよいよ楽しいとゆうて、話しておられました。ですから、朝の御祈念のすがすがしさは、夜に求めようとしても出来ない。真っ暗いしじまの中に、お互いが合楽へ合楽へとゆうて通ってくる、気持。それから合楽に到着させて頂いた、あの気分とゆうのは朝参りされる方にしか分からないすがすがしさですね。夜なんか、とても頂けるもんじゃあない。その朝の御祈念が有難い。けれども、なおかつ夜の御祈念にお参りさせて頂くのは楽しいんだと、そこんにきが本当に素晴らしいんだけれど、結局朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有難さとゆう事になるんだけれども、その昼の忙しさを抜き荷したら、夜の有難さはないんだと、豊美が話すんですよ。
 本当に、そうですよねえ。朝の御祈念の有難さ、ここんにきは、自力を以て一生懸命お参りしてくる。眠いけれど寒いけれど、すがすがしいとゆう気分を味あわして頂く為の有難さが合楽へ合楽へと足を向けてくる。そして、その御教えなり、すがすがしさを持って帰り昼の御用に一生懸命携わして頂き、今日もあなたのおかげでお引き回し頂いて、今日も、このように健康で働かして頂いて有難うございますとゆう、もうなんともいえん、深い深い有難さとゆうか楽しさとゆうか、夜の御祈念がある訳なんです。
 確かに、夜の御祈念の有難さとゆうのは、もう神様に、あなたのおかげで終日お引き回し頂いてとゆう、その喜びがですね、そこに神様が、なんのじゃろかいな、今朝から一生懸命参ってくる、昼一生懸命教えを元にして働かして頂いたおかげで、この喜びがあるのぞ、この有難さがあるのぞ、とゆう事になってくる。ですから、金光教の信心は、絶対自力の絶対他力であるとゆう事と同時に、それをもうひとつひっくるめますと、自力でもなからねば他力でもない。所謂神様と氏子のあいの中に。鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか分からない。その鐘と撞木のあいから生れてくるところの音色が、今日もおかげ頂いて有難い。金光様の信心は、ここのところが独壇場である。有難いところであると思うんですね。ここんところを味わして頂く為に、どうでも朝のすがすがしさを味あわして頂く為の頑張りが必要なのであり、修業が大事なのである。
 そして、いかに教えを元にして、一日を忙しく立ち働かして頂く事が、行じていく事が大事かとゆう事が分かる。そこへ、夜の御祈念の限りない有難い、今日一日お使い回し頂いてとゆう、もう絶対他力の、あなたのおかげでとゆう信心が出来てくる。その事を思わして頂いて、御祈念しよりましたら、久留米の初代の石橋先生が頂いておられる、信心生活とは、自分の一切の物に熨斗を掛けた生活だと言うてある。それを頂くんです。ですから、私共は、ここのところの本当の味わいを頂かして頂く為には、やはり絶対自力の信心が必要であり、絶対他力を分からして頂く為に、岡崎さんじゃないが、五千円は神様の物とゆうのが六千円、七千円、八千円と段々神様の御ものである。いや、あなたのおかげを頂かねばとゆうところに、到達出来た時に、初めて一切の物に熨斗が掛けられる信心生活が出来るのじゃなかろうかと思います。
 今日、佐田さんのお母さんがお届けしておりましたが、恭造さんが一生懸命自転車を踏んでいるところをお夢に頂きましたと言われる。お宅の恭造さんが一生懸命自転車を踏んでなさる、絶対自力のところを通りよんなさるのだろうと、私は申しました。それでも歩くよりまし、信心させて頂いて、その教えを元にして、自力の信心が一生懸命出来ておる。これから他力の信心が段々分からして頂いて、ボタン一で自分の神経が店の隅々まで行き渡るような、言うなら自転車から自動車に乗り換えてハンドル一つ持っときゃ、沢山の物を乗せたり人を乗せたり出来れる境地があるとゆう事。そうゆうおかげに進んでいかなくちゃいかんと話したところです。やはり何とゆうても、絶対自力のところの信心がですね、その修業が出来てから、絶対他力が判ってくるのです。絶対他力が判ってくるところから、本当の金光様の御信心であるところの、あいよかけよの中から生れてくる喜び、そこから生れてくる信心生活とゆうのが、所謂一切に熨斗をつけた生活が出来てくる。それが本当のお道の信心でゆう信心生活とゆう事になってくるのです。どうぞ。